MFN(最恵国待遇)薬価政策がもたらす「日本上市見送り」リスク|MFN時代の製薬マーケティング【前編】

2025年5月、米国で医薬品の価格を他の先進国の最低水準に引き下げる「MFN(最恵国待遇)薬価政策」の大統領令が署名されました。日本で決まった低い薬価が、世界最大の市場である米国の薬価を引き下げるという構造が現実味を帯びるなか、グローバル製薬企業が「日本での上市」そのものを慎重に判断する動きが出始めています。前編では、MFN薬価政策の基本構造と、「承認されても発売されない」という新たなドラッグ・ロスが生まれるメカニズムを解説します。
(外資系製薬企業 製品戦略部勤務/製薬キャリア3.0運営 こういち)
MFN(最恵国待遇)薬価政策の現在地と「日本市場」への影響
まずは、MFN薬価政策とはどのような政策なのか、そしてなぜ米国の薬価政策が日本市場の行方を左右するのかを整理します。
米国MFN政策の概要とメカニズム
近年の製薬業界において、国際的な医薬品アクセスおよび価格設定戦略に大きな波紋を広げているのが、米国における「MFN(Most Favored Nation:最恵国待遇)薬価モデル」の導入議論およびそれに伴う政策動向です。2025年5月には、トランプ米大統領が医薬品へのMFN価格の適用を指示する大統領令に署名し、議論は一気に現実のものとなりました。
MFNモデルの根幹にある思想は極めてシンプルです。すなわち、「米国政府(Medicareなど公的保険)が支払う医療用医薬品の価格を、他の先進国(OECD加盟国など)で適用されている最も低い価格(または先進国の平均価格・最低価格帯)と同等レベルまで引き下げる」というものです。米国は伝統的に自由価格制を軸としており、世界で最も高い薬価が設定される市場でした。グローバル製薬企業にとっても、米国市場での高い利益率が創薬イノベーション(R&D)の投資回収の原動力となっていました。
しかし、米国内における薬剤費の高騰や患者負担の増加に対する政治的圧力の高まりを受け、米国政府は先進各国の公的薬価(特に国が薬価を統制している日本や欧州主要国)を参照し、米国内の薬価の上限を設定しようとする参照価格制(International Reference Pricing:IRP)を推し進める動きを強めています。
これは、「ある国(例えば日本)で決定された低い薬価が、世界最大の市場である米国の薬価を直接的に引き下げる圧力になり得る」という構造が成立することを意味します。
【MFNの波及構造】
1. 日本での低い薬価確定
↓(参照価格制度・MFN条項の適用可能性)
2. 米国市場での参照薬価が引き下げ圧力を受ける
↓
3. グローバル全体のR&D投資回収・収益基盤に大きな打撃
日本の薬価参照リスクと低薬価構造が生むインパクト
ここで焦点となるのが、「日本市場の薬価」がグローバル全体に与える波及リスクです。
日本は、全国民皆保険制度のもとで中央社会保険医療協議会(中医協)での議論を経て、厚生労働省が公定価格として薬価を定めています。類似薬効比較方式や原価計算方式といった独自の薬価算定ルールに加え、近年の薬価制度改革によって、以下のような引き下げ圧力が日常化しています。
- 新薬創出等加算の要件厳格化・縮小
- 市場拡大再算定・特例拡大再算定による成功製品へのペナルティ的引き下げ
- 毎年薬価改定(中間年改定)の定着による急速な薬価の目減り
日本市場では、新薬の収載時に類似薬効比較方式で低い薬価が設定され、企業の希望価格を大幅に下回る価格が提示されることは珍しくありません。
もし米国のMFN政策や他国の参照価格制度において「日本で決定した薬価」が直接的な参照元として採用された場合、製薬企業が直面する損益の規模は、日本一国の売上減少リスクの比ではないでしょう。
- 日本市場単体の売上規模:グローバル全体の約4%程度1)
- 米国市場の売上規模:グローバル全体の40~50%以上1)
つまり、仮に日本で売上100億円が見込める画期的新薬があったとしても、日本の低い薬価に引きずられて米国市場で数千億円規模の薬価引き下げが発生してしまう可能性があります。そうなれば、グローバル経営陣にとって「日本市場での収載を慎重に判断する」「日本での上市を遅らせる、あるいは一時的に見送る」ことが現実的な経営上の選択肢として上がってしまうのです。
承認されても発売されない「承認済、未発売という新たなドラッグ・ロス」の現実化と具体的事例
従来、日本市場における問題は「ドラッグ・ラグ(海外で使える薬が日本で承認されるまでに時間がかかる問題)」もしくは「ドラッグ・ロス(海外で発売されている薬が日本で承認申請すらされない問題)」でした。しかし近年では、新たなドラッグ・ロスのリスクが浮き彫りになってきています。
具体的には、厚生労働省から医薬品としての製造販売承認を取得したにもかかわらず、その後の薬価収載手続きにおいて収載が見送られたり、延期されたりすることで、「承認済・未収載(承認されたが発売されない)」状態に陥るケースです。
国際的な薬価連動ルールのしわ寄せで、日本で承認されながらも発売されないといった新たなドラッグ・ロス、いわば「MFNドラッグ・ロス」が現実化しつつあります。
実際に近年、日本の医薬品市場においては、厚生労働省の承認を得ながらも薬価収載に至っていない品目や、収載が延期されている事例が散見されます。
【最近の事例に見る「承認済・未収載」もしくは「収載遅れ」の事例】
1. イムルネストラント(製品名:イムルリオ)(乳がん治療薬)
乳がん治療薬として2025年12月に厚生労働省からの製造販売承認を取得したものの、定期的に行われる薬価収載のタイミングにおいて収載が見送られ続け、承認から296日を経た2026年10月にようやく薬価収載されました。通常は承認から60日以内、遅くとも90日以内に収載されるのが通例であり、新薬としては異例の長さです。中医協総会でも収載の遅れを問題視する声が上がったと報じられており、上市時期が長期間不透明になった典型的な事例と言えます。
2. レニオリシブ (製品名:ジョエンジャ )(APDS治療薬)
希少難病である活性化PI3Kδ症候群(APDS)治療薬として製造販売承認を取得したものの、承認(2026年3月)から薬価収載(2026年8月)まで約5カ月間「未発売状態」が続きました。(米国では2023年に先行承認・発売) こちらも通例の収載時期から遅れた事例です。
これらの「承認済・未収載」や「上市延期」について、各社から公表されている情報は限られており、MFN政策との関連を示すものはありません。背景には、単一の理由だけでなく、グローバルでの供給体制の調整、追加データの準備、さらには国内外における薬価算定ルールや戦略的協議など、複合的な要因が関与している可能性があります。したがって「薬価のみが原因である」と断定することはできませんが、日本市場における薬価決定プロセスやグローバル戦略との整合性が、上市スピードに影響を与える重要な要素の一つとなりつつあることがうかがえます。
以前であれば、「承認されたら即座に薬価収載され、販売開始される」のが前提でした。しかしMFN時代においては、「承認は取得したが、グローバル全体の価値防衛や戦略的理由から薬価収載を慎重に検討し、発売時期を見極める」という意思決定が実際に下される局面に私たちは入っています。
この変化は、日本の医療現場や患者への影響はもちろんのこと、日本法人で働く製薬マーケターの業務プロセスを揺るがしつつあります。
なぜグローバル企業は「日本上市の絞り込み・見送り」を判断するのか
「承認済・未発売」は、グローバル企業の恣意的な判断ではなく、経済合理性に基づく意思決定の結果として起こります。ここでは、グローバル本社が日本上市に慎重になる3つの構造的な理由を解説します。
【理由1】他国(特に巨大市場・米国)への薬価波及リスクと経済合理性
グローバル製薬企業のアセット・マネジメントにおいて、ポートフォリオの投資優先順位は常に「全社的な正味現在価値(NPV)の最大化」を基準に決定されます。
MFN環境下における意思決定のロジックを、具体的なシミュレーションで解説します。
【仮想ケーススタディ:超希少疾患・オンコロジー領域の新薬X】
- 米国市場での想定年間売上:3,000億円(薬価:年間3,000万円/人)
- 日本市場での想定年間売上:150億円(薬価:年間1,500万円/人を希望)
もし、日本の薬価交渉において「年間600万円/人(グローバル希望価格の40%、米国の5分の1の薬価)」という提示を受けた場合、どうなるでしょうか。
【シナリオA:日本で薬価収載して発売した場合】
- 日本市場での売上:+60億円/年
- MFNなどによる米国市場への波及可能性:米国薬価が影響を受け、米国売上が20%下落(▲600億円/年)の恐れ
⇒ グローバル全体での損益影響:▲540億円/年の赤字(純損失リスク)
【シナリオB:日本の薬価収載を延期・辞退(上市見送り)した場合】
- 日本市場での売上:0円
- 米国市場への波及影響:0円(米国での価格・利益率を維持)
⇒ グローバル全体での損益影響:0円(損失回避)
ビジネスの経済合理性のみに基づけば、グローバル本社が「シナリオB(日本での薬価収載見送り)」の検討を始める可能性は排除できません。日本法人のマーケターがどれほど「日本の患者さんのために一日も早く届けたい」と訴えても、グローバル全体の経営基盤を揺るがすリスクの前には、ローカルの事情だけで押し切ることが極めて難しいのが現代の製薬企業の現実です。
【理由2】複雑化する日本の薬価制度(新薬創出加算の見直し・再算定・中間年改定など)と予見性の喪失
さらにグローバル本社を困惑させ、日本市場への投資意欲を削ぐ要因となり得るのが、「日本の薬価制度の予見可能性の低さ」です。
過去、日本市場は「世界第2位・第3位の巨大市場であり、一度上市すれば安定した売上を見込める市場」と位置づけられていました。しかし、近年の制度変更により、発売後の薬価維持に関する予測が複雑化しています。
1. 毎年薬価改定(中間年改定):
2年に一度だった薬価改定が実質的に毎年行われるようになり、毎年数パーセントずつの薬価下落が発生するリスクがあります。グローバル本社の長期売上予測(10年スパンの長期計画〔LRP〕)モデルにおいて、毎年薬価が目減りする可能性のある市場は、NPV計算上厳しい評価を受けがちです。
2. 市場拡大再算定および特例再算定:
マーケターや営業現場の努力によって想定以上に製品が患者に届いて売上が拡大した場合、「市場が拡大した」という理由で薬価が再算定(引き下げ)されるルールが存在します。成長がそのまま価格引き下げにつながる制度は、外資系本社の経営陣にとって予測を難しくさせる要因となります。
3. イノベーション評価の不透明さ:
新薬創出加算の適用基準や各種加算のハードルが変更されることがあり、新薬の開発着手段階での将来薬価の予測(Pricing Forecast)が非常に困難になっています。
結果として、グローバル本社からは「日本市場は薬価設定の不確実性が高く、かつ上市後に薬価が一方的に下落するリスクが存在する市場」と判断され、新薬の優先開発・優先上市国から外される可能性が議論されるようになってきているのです。
【理由3】モダリティシフトと日本市場の相対的地位の低下
近年のグローバル製薬企業の経営においては、希少疾患(オーファンドラッグ)、精密医療(プレシジョン・メディシン)、細胞・遺伝子治療(CGT)といった高額かつ対象患者数の少ないモダリティが開発の中心となっています。
これらの高度なモダリティになればなるほど、一製品あたりの薬価設定が製品生命線を握ります。他国市場の急成長や世界的な価格交渉の多様化の中で、日本市場の相対的シェアは低下傾向にあります。
「高い開発コストをかけて日本固有の治験(追加治験やブリッジング試験など)を実施しても、薬価リスクや国際的な参照価格リスクに見合わない可能性がある」と判断された場合、グローバル本社のポートフォリオマネジメント会議において、日本へのリソース配分順位は後回しにされる恐れが生じます。
おわりに:変化はマーケターの日常業務に及ぶ
前編では、米国MFN薬価政策の基本構造と、「承認されても発売されない」という新たなドラッグ・ロスが生まれるメカニズム、そしてグローバル企業が日本上市に慎重になる3つの理由を整理してきました。
こうした変化は、薬価やマーケットアクセスの担当部門だけの話では終わりません。売上予測の立て方、未発売品への対応、グローバル本社とのコミュニケーションなど、日本法人で働くマーケターの日常業務にも影響が及び始めています。
後編では、マーケターの業務に起きる「3つの変化」を具体的に取り上げ、今から準備しておきたいアクションとマインドセットを解説します。
<出典>
1)日本経済新聞, 2025. 06.24, 24年の医薬品市場、日本は4位転落 米調査会社調べ
(https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC17BPE0X10C25A6000000/)







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