第6回 ROIという「問い」と向き合う-製薬マーケティングの新たな説明責任|製薬マーケ部門担当者と考えるオムニチャネル時代の包括的なブランドプラン

マーケティングは「活動」ではなく「投資」として説明できているでしょうか。製薬業界でも、限られた予算の中で成果を問う動きが強まり、ROIへの向き合い方が変わりつつあります。本記事では、その背景にある変化と業界特有の難しさを整理しながら、効果分析の具体的な考え方をデータ分析の専門家であるユーシービージャパン 小川氏の解説を交え紐解きます。
(田辺ファーマ株式会社 執行役員 マーケティング本部長 川野清伸 × ユーシービージャパン株式会社 経理・財務インサイト トゥ インパクト本部 インサイトジェネレーション部 部長 小川 雅宏 氏)
※記載内容は著者個人の見解であり、著者が所属する企業の見解や方針を代弁・表明するものではありません。また、記載内容は著者が所属する企業の状況に関するものではなく、あくまで著者の認識における製薬企業一般の話であることをご承知おきください。
- 「ROI」がざわつき始めた理由
- 1. 人材の流動化
- 2. デジタル化の進展によるデータポイントの飛躍的な増加
- 3. 薬価をめぐる構造的な変化
- 製薬企業でROIが問われてこなかった理由と、その前提の変化
- マーケティングは「活動」ではなく「投資」である
- 製薬マーケティングにおけるROI測定の構造的難しさ
- 「測りたい、でも測れない」という現実
- 製薬マーケティングで取り入れたい効果分析(小川氏)
- 1. Financial ROI:財務的視点 〜投資に対して「直接的・経済的にいくらの貢献があったのか」を測る〜
- 2. Behavioral ROI:行動プロセスの視点 〜「医師の意識や行動がどう変わったか」を測る〜
- 3. Omnichannel ROI:顧客接点の視点 〜「どの情報伝達手段が最も効率的だったか」を測る〜
- 科学とビジネスの奇妙な接点に立って
「ROI」がざわつき始めた理由
製薬業界におけるROI(Return on Investment:投資対効果)をめぐる議論が、明らかに熱を帯びてきたと感じています。一昔前であれば、「マーケティングの効果はなかなか測れないもの」という暗黙の了解が業界全体に漂っていました。ところが今、その空気が変わりつつあります。背景にあるのは、製薬業界で生じている次の3つの変化です。
1. 人材の流動化
コンサルティング業界から製薬業界への転職が活発になるにつれ、高度な定量分析を日常業務として扱ってきた人材が各社に増えてきました。彼らが持ち込んだのは、単なるスキルセットだけではありません。「マーケティングは成果で語られるべきだ」という、ごく当たり前でありながら、製薬業界ではこれまで必ずしも徹底されてこなかった思想です。
2. デジタル化の進展によるデータポイントの飛躍的な増加
かつては処方データとMRの訪問記録くらいしか手元になかったものが、今やWebサイトの閲覧履歴、メールの開封率、ウェビナーの参加状況、SNSでの反応、さらにはリアルワールドデータまで、医師や患者の行動を多角的に捉えられる情報が揃ってきました。
データが増えれば、「それで何がわかったのか」「その施策は本当に効いたのか」という問いを立てやすくなります。測れる環境が整ったことで、逆に「なぜ測らないのか」という圧力が組織の内側から生まれてきたのです。
3. 薬価をめぐる構造的な変化
日本では薬価の引き下げが継続的に進んでおり、製薬企業の収益構造は以前と比べて明らかに厳しくなっています。かつては「良い薬を出せばある程度の収益が見込める」という余裕があったかもしれませんが、今やその前提は崩れつつあります。限られたマーケティング予算の中で最大の効果を引き出すためには、どの施策にいくら投じて、どれだけのリターンが得られたのかを真剣に問わなければなりません。ROIへの関心は、いわばビジネスの「生存本能」から来ているとも言えるのではないでしょうか。
製薬企業でROIが問われてこなかった理由と、その前提の変化
上記で挙げた変化の一方、製薬業界には他の業界にはない特殊事情があります。医薬品は承認・保険収載・ガイドライン掲載というプロセスを経て、ある意味「一定数の処方が保証される」構造を持ちます。売れる薬はある程度売れるという構造が、ROIへの感度を鈍らせてきた側面であることは否定できません。その結果、ROIに対する温度差が、企業間でも部門間でも大きく開いたまま今日に至っています。
しかし、その猶予はそろそろ終わりを迎えようとしているのではないでしょうか。データは蓄積され、予算の圧力は高まり、説明責任を求める声は強まっています。
「測れないから仕方がない」という言い訳が通用する時代は、静かに、しかし確実に終わりを告げようとしています。
マーケティングは「活動」ではなく「投資」である
ROIとは、マーケティング投資がどれだけ売上・利益に貢献したかを問うものです。CMO(最高マーケティング責任者)には「マーケティング費用がトップラインにどう貢献したか」を経営に対して説明する責任が、かつてないほど強く求められています。
ROI向上のための論点として挙げられるのは、施策成果の可視化、PDCAの高速化、マーケティングの内製化、そしてガバナンスの整備です。これらはいずれも「測る・改善する・管理する」というサイクルを組織に根付かせるための要素であり、裏を返せば、これらが欠けたままでは「マーケティングに投資している」とは言えないことを示唆しています。
マーケティングをコストセンターではなく、利益を生む投資として位置づける。この発想の転換こそが、今求められているパラダイムシフトです。
製薬マーケティングにおけるROI測定の構造的難しさ
ROIの測定に悩みを抱える製薬企業のマーケティング担当者は少なくありませんが、それは一体なぜなのでしょうか。根本的な理由は、意思決定の構造にあると考えます。
消費者向けビジネスであれば、広告を見た顧客が購買するという直線的な因果関係が描ける一方で、製薬の場合、処方を決めるのは医師であり、患者への直接広告が規制されています。さらに、MRの活動とデジタルマーケティングの効果が複雑に絡み合い、「どの施策がどの処方に結びついたか」を切り分けることは、理論的にも実務的にも極めて難しくなっています。
加えて、承認・保険・ガイドラインといった外部要因が処方動向に大きく影響するため、マーケティング施策の純粋な「寄与分」を取り出すことが困難です。
こうした事情から、製薬マーケティングでは売上ROIだけでなく、HCPエンゲージメント、コンテンツの閲覧状況、KOLへの影響度、薬剤採用曲線(Treatment Adoption Curve)といった中間指標が活用される傾向にあります。これらは最終的な処方行動への橋渡しとなる指標であり、単体では「ROI」と呼べないものの、施策の質と方向性を評価する上で重要なシグナルを提供します。
「測りたい、でも測れない」という現実
マーケティングリサーチ・データ分析を専門とするニールセンが、ROI戦略について世界のマーケティング担当者を調査し発表した「2024年マーケティング年次報告書」によると、多くの担当者がROI測定の重要性を認識し自社の測定能力に自信を持っている一方で、オフラインとデジタルの施策を統合してマーケティング活動の総合的なROIを算出できていると回答した担当者は全体の38%に留まっています1)。
製薬企業の現場においても「ROIを測りたい、しかし測れていない」という矛盾した状況が続いており、この乖離の背景にはデータの分断という組織的な問題が潜んでいると考えています。
MRが持つフィールドの情報、デジタル施策のアクセスデータ、処方データなどがそれぞれ各システムや部門に分散して蓄積され、統合されないままでは全体としてのROIを語ることができません。
ROI測定の問題は、分析技術の問題である以前に、データ統合とガバナンスの問題なのです。
ここからは、データ分析のエキスパートであるユーシービージャパン 小川氏に、製薬マーケティングで取り入れるべき効果分析手法に関する解説を委ねたいと思います。
製薬マーケティングで取り入れたい効果分析(小川氏)
マーケティング領域における効果分析は、売上などの最終成果だけで捉えられるものではありません。処方に至るまでには、複数の接点を通じた情報伝達や、医師の認知や意向の変化といったプロセスが介在します。
それを踏まえると、効果分析は「財務(Financial ROI)」「行動プロセス(Behavioral ROI)」「顧客接点(Omnichannel ROI)」という3つの観点に分類できます。
| Financial ROI | Behavioral ROI | Omnichannel ROI |
|---|---|---|---|
評価対象 | 売上・利益への貢献 | 医師の意識・行動変化 | 医師に対するプロモーションチャネルの組み合わせ効果 |
主な指標 | 売上増分、利益、患者数 | 認知、処方意向、継続意向 | 接触履歴、イベント参加、売上 |
得られる示唆 | 施策の成果を最終的な業績インパクトとして判断できる | 売上に至る前の、意識や行動の変化を段階的に把握できる | 複数チャネルの組み合わせの最適解を検討できる |
この3つの分析は、異なるレイヤーの変化をそれぞれ捉えます。例えば、売上・利益という最終的な成果を測るのがFinancial ROIであるのに対し、その手前にある医師の意識や行動変化を捉えるのがBehavioral ROIです。さらに、そうした変化をどのチャネル・組み合わせが生み出しているのかを捉えコスト効率を最大化するのがOmnichannel ROIです。
以下では、それぞれの分析について具体的に見ていきます。
1. Financial ROI:財務的視点 〜投資に対して「直接的・経済的にいくらの貢献があったのか」を測る〜
投資(販促費)が最終的な成果である「売上」や「利益」にどの程度貢献したかを金額ベースで算出し、予算配分の正当性を評価するのがFinancial ROIの目的です。
分析方法 | ・プロモーション実施/未実施群の比較により、目的変数への寄与度を算出 ・回帰分析により、各プロモーションの目的変数への寄与度を算出
説明変数例:各種プロモーションの実施回数 目的変数例:売上高の増加額、新規患者獲得数 |
|---|---|
結果の例 | 「講演会実施(回数、参加医師数)により1,000万円を投下し、結果として5,000万円の売上増分に貢献した(ROI 500%)」などの結論へと導く |
何もしなかった場合(ベースライン)と投資をした場合の差分を、いかに精度高く抽出できるかが分析精度に影響を及ぼします。そのため、結果指標の定量化の純度をどれだけ高められるかが重要となります。
他にも、分析の精度や実務上の難しさには、以下のような論点もあります。
項目 | 内容 |
|---|---|
タイムラグ | 投資が売上に反映されるまでの期間設定が必要 |
群間の同等性 | プロモーション実施群と未実施群の同等性を担保するのが実務上難しいケースが多い |
評価基準 | ROIの良し悪しは製品ライフサイクルにも依存するため、評価基準の置き方を検討する必要がある |
これらはいずれも、分析結果の解釈に影響を及ぼす要素です。そのため、数値そのものだけでなく、どのような前提で算出されているのかをあわせて捉えることが重要になります。
今後は、投下した資源と売上変動に関するさまざまなデータの蓄積が進むことで、分析精度の向上が期待されます。
2. Behavioral ROI:行動プロセスの視点 〜「医師の意識や行動がどう変わったか」を測る〜
売上の手前にある医師の製品認知・理解や処方意向の変化を可視化するのがBehavioral ROIの目的です。マーケティングメッセージによって、医師の意識や行動にどのような変化が生じたのか、「知っている(認知)」から「使ってみたい(意向)」、そして「使い続ける(継続行動)」というステップを定量的に把握します。
分析方法 | ・施策前後での同一医師群のアンケート結果を比較し、変化を把握 ・アンケート内で情報接触状況と医師のブランド認知や処方意向を確認し、関係性を群間比較で定量化
説明変数例:各種キャンペーンの接触履歴、説明用資材の提示回数、キーメッセージの内容や伝達数 目的変数例:ブランド認知度、処方開始意向、処方増加意向 |
|---|---|
結果の例 | 「キーメッセージの5つすべてを伝達された医師では、製品の処方開始意向が+30%向上」などの結論を導く |
施策の前後や情報接触の有無による差分をもとに、意識や行動の変化を捉える点が特徴です。
一方、アンケートによる回答(建前)と実際の処方行動(本音)が一致しない場合が多々あるため、結果の解釈には注意が必要となります。他にも、調査パネルとなる医師の偏りも、分析結果を解釈する際には考慮に入れる必要があります。
今後は、アンケートだけに依存せず、企業全体で精度の高い情報を蓄積していくことが競争優位性につながります。そのためには、収集すべき情報の定義を明確にし、共通認識として浸透させることが重要です。あわせて、MRによる日常的な情報収集も活かすことで、分析の可能性を広げていけるでしょう。
3. Omnichannel ROI:顧客接点の視点 〜「どの情報伝達手段が最も効率的だったか」を測る〜
MR訪問やWeb講演会、メール、学会など、多岐にわたる顧客接点(チャネル)の組み合わせを最適化し、コスト効率を最大化する目的で分析するのがOmnichannel ROIです。
単一チャネルの効果だけでなく、「デジタルで興味を持たせた後にMRが訪問する」といった、チャネル間の相乗効果(シナジー)に着目します。
分析方法 | ・単一プロモーション実施群と複数プロモーション実施群の比較により、組み合わせによる目的変数への寄与度を算出 ・プロモーションの組み合わせパターン別の層別解析により目的変数の差異を試算
説明変数例:メール開封ログ、講演会参加、Webセミナー参加、MR面談 目的変数例:イベントへの参加数、売上高の増加額、新規患者獲得数 |
|---|---|
結果の例 | 「MR訪問単体よりも、Web講演会後のMR訪問の方が、処方患者獲得数が2.5倍高くなる」などの結論を導く |
チャネルの組み合わせによる差分を比較することで、チャネル間の相乗効果を捉えます。
一方で、こうした分析を行うためには、各プロモーションデータが適切に管理されていることが前提となります。そのため、実務上は以下のようなデータ管理や体制のあり方が重要な論点となります。
項目 | 内容 |
|---|---|
データ管理 | 接触情報が抜け漏れなく保持されているなど、各プロモーションデータが適切に取得・管理されている必要がある |
体制・運用面 | データ収集できていない情報について業務オペレーションを変更し、情報を蓄積していく変革にはかなりの労力が必要となる場合がある |
今後は、こうした分析結果を元に、MRの具体的な活動に反映していくことが期待されます。
例えば「この医師は昨夜サイトを閲覧しているため、本日は関連するこの資料を持参して訪問すべきである」といった活動推奨を、短いサイクルで実施する仕組みの精度が高まることで、実務への活用可能性が広がります。
科学とビジネスの奇妙な接点に立って
製薬企業の多くは、マーケティングやセールスに莫大な費用を投じています。医薬品は科学によって生まれますが、社会に届けるためにはマーケティングという伝達装置が必要です。
ここには、製薬産業特有の本質的な矛盾と可能性が凝縮されていると感じています。本来、医薬品の価値は科学的エビデンスによって評価されるべきものです。しかし現実には、その価値を医師や患者に適切に理解・活用してもらうためのコミュニケーションが不可欠です。つまり、「科学だけでは届かない」一方で、「売ることだけに寄り過ぎてもいけない」という緊張関係の上に、製薬マーケティングは成り立っています。
だからこそ、製薬マーケティングにおけるROIの議論は、単なる費用対効果の話に終わりません。売上だけでなく、患者アウトカム、医師との信頼関係、さらには社会全体の医療経済への貢献まで含めて、マーケティング活動の成果として問われるからです。
「測れないから仕方がない」という言い訳はもはや通用せず、測り方を工夫し、測れる部分から説明責任を果たし、測れない部分については誠実に「なぜ測れないのか」を語る。その姿勢こそが、これからの製薬マーケターに求められる知性だと私は考えています。
ROIという問いは、私たちに「自分たちの仕事は本当に価値を生んでいるか」を突きつける、最も根本的な問いでもあります。その問いから目を逸らさないことが、プロフェッショナルとしての第一歩です。
<参考>※URL最終閲覧日2026.5.1
1)Nielsen, 2024.4.25, ニールセン、ROI戦略について世界のマーケティング担当者を調査した「2024年マーケティング年次報告書」を発表(https://www.nielsen.com/ja/news-center/2024/nielsen-releases-its-2024-annual-marketing-report-surveying-global-marketers-on-roi-strategies/)
■ゲスト寄稿者
小川 雅宏 氏
UCB Japan株式会社 インサイトジェネレーション部 部長
IMS(現IQVIA)のコンサル部門にて、内資・外資製薬企業に対する多数のプロジェクトにおいて責任者としてコンサルティング業務を遂行しCEO Awardを獲得。2018年に武田薬品工業株式会社に転職し、コマーシャル領域における分析、フォーキャスティング、マーケットリサーチに従事。2022年にUCB Japan株式会社へ転職しインサイトジェネレーション部 部長として部を立ち上げ、全ての製品に対するアナリティクス、フォーキャスティング、マーケットリサーチ、パフォーマンスモニタリング、Sales Force Effectiveness、デジタル関連のプロジェクト遂行などを行う。併行してUdemyの講師としても活躍。(1,000名以上が受講)









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